2026.01.06:第21回 私の回顧録
転職先は“生地の山”!?
〜刺激的な日々〜
こんにちは。
「糸偏コラム」をご愛読いただき、ありがとうございます。 前回は、迷いと期待が入り混じる中で仕事を探していた時期のお話でした。そして今回、その続きとして私がたどり着いた場所――それが「生地問屋」でした。
洋服に関わる仕事は続けたい。でも、これまでとは少し違う角度から関わってみたい。そんな気持ちで選んだ転職先が、結果的に私と“素材”との距離を一気に縮めることになるとは、その時はまだ想像もしていませんでした。
今回は、生地に囲まれ、サンプルに追われ、ときに段ボールの山に埋もれながら過ごした日々を振り返ります。服づくりの元となる生地の世界で、私が何を感じ、何を学んだのか。どうぞ気楽にお付き合いください。
◾️ 神田須田町|歴史ある生地の街
私が転職してお世話になったのは、東京都千代田区・神田須田町にある生地問屋でした。
創業は明治時代。
もともとは大阪・谷町で商いを始め、戦後に法人化、そして東京へ進出したという、筋金入りの老舗です。
建物自体は決して新しくありませんが、そこかしこに年月の積み重ねを感じさせる雰囲気がありました。
玄関を開けると、どこか懐かしい布の匂い。
毎日ダスキンで掃除はされているのに(笑)、長年扱われてきた生地の気配はしっかりと残っていました。
須田町や岩本町一帯は、かつて「羅紗屋(らしゃや)」が集まるエリアとして知られていました。
羅紗屋とは、主にウール系の起毛織物、いわゆる“ラシャ”を扱う商人のこと。
語源はポルトガル語の「Raxa」とされ、南蛮貿易を通じて日本に伝わったと言われています。
こうした背景を知ると、日本の洋服文化が、ずいぶん昔から海外とつながっていたことに気づかされます。
私が働いていた会社も、そんな歴史の延長線上にある一社でした。
◾️ ちょっと変わった生地問屋|婦人服地と洋裁
一般的な生地問屋(羅紗屋)というと、紳士服向けのスーツ地を扱い、テーラーやオーダー店が主な取引先というイメージがあります。
しかし、私の勤めていた会社は少し違っていました。
メインで扱っていたのは、婦人服向けの生地。
そして主なお得意先は、洋裁教室や洋裁店でした。
これは当時でもかなり珍しいスタイルだったと思います。
生地の提案方法も独特でした。
分厚いバンチブックではなく、紙の台紙に生地を貼り付けた「カード式サンプル」。
軽くて、扱いやすく、郵送もしやすい。今で言えば、かなり合理的な仕組みです。
取引先からも評判が良く、「このサイズ感がちょうどいいのよ」「保管しやすくて助かる」といった声をよく聞きました。現場の声から生まれた工夫が、ちゃんと支持されている。そんなところにも、この会社らしさを感じていました。
◾️ 全国に広がる取引先
大阪のグループ会社を含めると、営業エリアは北海道から沖縄まで全国規模。
ピーク時には取引先が1万件を超え、私が入社した当時は約6,500件ありました。
これだけの数になると、数字としては圧倒されますが、実際の仕事では一件一件が顔の見える存在でした。
電話越しに聞こえる声、何気ない世間話、注文のクセ。そうした積み重ねが、商売を支えていたのです。
「今月は生徒さんが多くてね」「来月の課題はワンピースなのよ」そんな会話の中から、必要とされる生地のヒントが自然と浮かび上がってきました。
生地を売るというより、一緒に洋服づくりを考えている感覚に近かったかもしれません。
◾️ 戦後の洋裁ブーム|洋服が憧れだった時代
なぜ、これほど多くの洋裁教室が全国に存在していたのか。その背景には、戦後日本の洋裁ブームがあります。
既製服がまだ十分に普及していなかった時代、自分で服を作ることはごく自然な選択でした。服飾専門学校の師範科を卒業した人たちが各地で洋裁教室を開き、地域の洋服文化を支えていました。
「〇〇文化」「〇〇ドレメ」といった名前の教室が、全国に点在していたのもこの頃です。針と糸とミシンが、生活のすぐそばにあった時代。私たち生地問屋は、その土台を支える役割を担っていました。
◾️ 既製服の時代へ変化
しかし、時代は少しずつ変わっていきます。既製服が当たり前になり、洋裁教室の数は徐々に減少。
それに伴い、生地問屋のあり方も問い直されるようになりました。
私が入社したのは、まさにその過渡期でした。
「先生が高齢で教室を閉めるらしい」「この地域は、もう注文が細くなってきたな」
そんな話が社内でも聞かれるようになり、先行きへの不安がまったくなかったと言えば嘘になります。
それでも、布を愛する人は確実に存在していて、その人たちにどう応えていくかを、皆で模索していました。
◾️ 布と向き合う日々
生地問屋での仕事を通じて、私は改めて布そのものと向き合うようになりました。
一反の生地を触り、光に透かし、ドレープを確かめる。
その繰り返しの中で、生地が持つ個性が少しずつ見えてきます。
「この織りは柔らかいな」「この色は顔映りがいい」「この柄は少し冒険だけど、ハマる人には刺さる」
そんな感覚が、言葉ではなく、手の感触や生地を見る目として蓄積されていきました。
布は無言ですが、ちゃんとこちらに何かを伝えてくる。そんな気がしてならなかったのです。
◾️ 私にとっての原点|素材への目覚め
振り返ると、生地問屋での経験は、私にとって「素材への目覚め」そのものでした。洋服を見る視点が、デザインやシルエットだけでなく、「この生地は、どこから来たのだろう」という方向へ広がっていったのです。
あの時間がなければ、今のTexStylistも、このコラムも存在していなかったと思います。それくらい、生地問屋での日々は私の中に深く刻まれています。
洋服を売る仕事、つくる仕事は経験してきましたが、「素材」を専門に扱う仕事は初めて。
面接を受けながら、「もしかしたら、ここかもしれない」と、直感的に感じたのを覚えています。
ありがたいことに内定をいただき、2000年2月1日、私はこの生地問屋の一員となりました。
◾️ 次回予告|地味だけど大切な下積み
次回は、生地問屋で営業に出る前に担当した、社内業務のお話です。正直、最初は「これが何の役に立つんだろう」と思うこともありました。
でも、その地味な作業こそが、今の私を支える基礎になっていました。次回は、そんな下積みの日々を振り返ってみたいと思います。
それではまた、次回の「糸偏コラム」でお会いしましょう。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。