2025.12.29:第13回 私の回顧録
第二の故郷
〜90年代ファッション業界〜
こんにちは。
糸偏コラム「私の回顧録」第13回です。
前回のコラムで触れた、少し胸の奥に残る「せつない別れ」。
その出来事を経て、私はおよそ3年ぶりに群馬県・太田の地へ戻ることになりました。
この太田という街は、私にとって単なる勤務地ではありません。
ゾーンマネージャーとして約5年間、いくつもの店舗を巡り、地元スタッフと汗をかき、お客様と向き合い、数え切れないほどの出来事を共有してきた場所。
言ってしまえば、**仕事人生の基礎体力を鍛えてもらった“第二の故郷”**のような存在です。
さらに言えば、妻の実家もこの太田。
転勤の話をしたとき、妻は表向きは冷静を装いながらも、内心では「よしっ」と小さくガッツポーズをしていた……かどうかは分かりませんが(笑)、少なくとも安心感はあったはずです。
そんな私の“帰郷”は、一見すると温かく、前向きな再スタートのように見えました。
しかし現実は、そう単純なものではありませんでした。
◾️ 1990年代という時代|業界全体が揺れていた
1990年代後半。
今振り返ると、この時代は日本のファッション業界が大きな曲がり角を迎えていた時期だったと言えます。
バブル崩壊後の余波は、想像以上に長く、そして深く業界に影を落としていました。
売上は徐々に落ち、在庫リスクは増え、人件費や賃料といった固定費が重くのしかかる。
それまで「勢い」で回っていたビジネスモデルが、音を立てて軋み始めていたのです。
私自身も、その真っただ中で現場に立ち続けていました。
◾️ 専門店黄金時代|あの頃、街には夢があった
メンズファッションの象徴「タカキュー」
80年代から90年代初頭にかけて、メンズファッション専門店の世界で圧倒的な存在感を放っていたのが「タカキュー」でした。
業界に足を踏み入れたばかりの私にとって、タカキューはまさに“雲の上の存在”。
取引先としてその名を聞くだけで、背筋が伸びたものです。
特に新宿の旗艦店は別格でした。
年間売上40億円超――今聞いても、なかなか現実味のない数字ですよね。
当時の新宿バーニーズニューヨークと肩を並べるほどのスケール感で、まさにメンズ専門店の“横綱”と呼ばれる存在でした。
業界に足を踏み入れた頃、
「タカキューに商品が入れば一人前」
そんな言葉が、半ば本気で語られていたのを今でも覚えています。
実は、私が最初にこの業界に入った会社は、ありがたいことにタカキューと取引のある会社でした。
新人だった私は、その事実だけで少し誇らしい気持ちになっていたものです。
◾️ レディース専門店群雄割拠の時代
一方、レディース専門店も負けてはいませんでした。
「鈴屋」「鈴丹」「キャビン」「三愛」――
この名前を聞いて、懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。
当時のレディース専門店は、ショッピングセンターや駅ビルへの出店を一気に加速させ、
**“気づけば、どこにでも同じ名前の店がある”**という状況を作り出していました。
いわば、ファッション業界版のドミナント戦略。
スピードこそが正義で、出店競争は熾烈を極めていました。
しかし、急拡大の裏側では、在庫管理の難しさ、人材育成の遅れ、トレンド対応の限界といった問題も静かに積み重なっていきます。
90年代中盤以降、吸収合併や閉店のニュースが相次いだのは、決して偶然ではありませんでした。
◾️ 業態の地殻変動|スーツ戦国時代の幕開け
90年代に入ると、ファッション業界の重心は都市部から郊外へと移り始めます。
駅前・百貨店中心だった販売チャネルに対し、主要道路沿いに展開するロードサイド型店舗が急成長。
その象徴が「洋服の青山」でした。
「スーツ1着10,000円」
今では珍しくありませんが、当時としては衝撃的な価格設定。
品質よりもまず価格、そして利便性。
消費者の価値観が、大きく変わり始めていたのです。
特に印象深いのが、銀座店のオープン。
開店前から長蛇の列ができ、テレビカメラが入り、
「スーツがニュースになる時代が来たのか」と、誰もが驚いていました。
◾️ 渋カジ旋風とセレクトショップ文化
90年代前半、若者文化の中心にあったのが渋谷。
そこで生まれたのが、いわゆる「渋カジ」スタイルです。
この流れの中で一気に存在感を高めたのが、「ビームス」「シップス」といったセレクトショップ。
輸入ブランドとオリジナル商品を巧みにミックスし、
内装、音楽、接客まで含めたトータルな世界観を提供する。
もはや「服を売る店」ではなく、
**“ライフスタイルを提案する場”**へと進化していきました。
ビームスの紙袋を持って街を歩くこと自体が、ステータスだった時代。
あの独特の熱気と高揚感は、今でもはっきりと思い出せます。
◾️ SPAという黒船|世界と戦う時代へ
同じ頃、海外からも新たな潮流が押し寄せてきます。
GAP、ZARAといったSPAブランドの日本進出。
企画・製造・販売を一貫して行うビジネスモデルは、
在庫リスクとスピード感の両面で、従来型のアパレルに大きな衝撃を与えました。
国内でも、「ワールド」「オンワード」などの大手がSPA化を進め、
業界全体が構造改革の時代へと突入していきます。
そして、この流れの先に控えていたのが――
そう、「ユニクロ」の本格的な台頭です。
◾️ 1997年|すべてが一気に崩れた年
そんな激動の流れの中で迎えた1997年。
この年は、私個人にとっても、忘れられない一年となりました。
夏、日立店の貸主であったレディース専門店が経営破綻。
そして、そのわずか3か月後――
自社の廃業が決定。
あまりにも急で、あまりにも現実感がありませんでした。
「まさか、自分がこの場面に立ち会うことになるとは」
そう思いながら、ただ時間だけが過ぎていったのを覚えています。
◾️ 労働組合との交渉|現場の最後の役割
廃業が決まると、私は事業部長からの要請で、
急きょ労働組合に加入し、上部団体とともに交渉の場に立つことになりました。
正直に言えば、戸惑いの連続でした。
しかし、上部団体の尽力もあり、
退職金に加え、一定の補償条件を確保することができました。
「せめて、これだけは守れた」
そう思える結果だったのが、唯一の救いだったかもしれません。
◾️ 洋服と生きるということ
この時代を振り返ると、
ファッションとは、決して華やかさだけで語れるものではないと痛感します。
流行の裏には、必ず人がいて、
数字の裏には、必ず生活があります。
それでも私は、洋服の仕事を続けてきました。
なぜなら、人と人をつなぐ力が、洋服には確かにあると信じているからです。
◾️ 次回に向けて|再出発の物語へ
1997年という嵐のような一年を越え、
私はまた、新たな場所で再出発することになります。
次回は、その新天地での挑戦、
そして、また新しく出会った人たちとの物語をお届けします。
転んでも、立ち上がる。
洋服とともに、人生は続いていくのです。
どうぞ、次回もお楽しみに。