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Textile Industry Column糸偏コラム:自由な視点
私の回顧録

2026.02.01:第47回 私の回顧録

仕入れ編
〜米沢産地〜

みなさん、こんにちは。
前回までのコラムでは、尾州や京都といった産地についてお話ししてきました。 いずれの産地も、長い歴史と確かな技術を持ち、それぞれに個性があります。

今回お伝えする「米沢」も、そうした日本を代表する織物産地のひとつです。 ただ、私にとって米沢との出会いは、最初から“産地理解”を目的としたものではありませんでした。

きっかけは、とても実務的なものでした。 「セール商材を探す」。 ごく普通の、仕入れ担当としての仕事の一環です。

上杉鷹山公

◾️ はじめての米沢

商材探しから始まった、ご縁

初めて米沢を訪れたのは、地場のコンバーター(産地問屋/機元)さんに声をかけていただいたことがきっかけでした。 「一度、現地を見てみませんか」 そんな軽い一言だったように記憶しています。

正直に言えば、その時点では米沢産地について、深い知識を持っていたわけではありません。 「歴史のある織物産地らしい」 その程度の認識でした。

ところが、その訪問が、私の中で米沢を見る目を大きく変えることになります。


◾️ 上杉博物館で知った、産地の背景

織物は、暮らしと政治とともにあった

現地に着いた初日、コンバーターの方のご厚意で、市内にある上杉博物館へ案内していただきました。 これが、米沢産地への理解を深める最初の大きなきっかけとなります。

上杉博物館には、上杉家にまつわる歴史資料だけでなく、米沢織物の成り立ちや発展についても丁寧な解説が展示されていました。

米沢織の歴史は、江戸時代初期にまでさかのぼります。 上杉藩が財政を立て直すために織物産業を奨励したことが、その始まりでした。

特に印象に残ったのが、第9代藩主・上杉治憲、いわゆる上杉鷹山公の改革です。


◾️ 上杉鷹山公の改革

産業を育てるという発想

上杉鷹山公は、藩の財政難を立て直すため、徹底した改革を行いました。 その中核にあったのが、織物産業の育成です。

藩士の婦女子に機織りを学ばせ、 それまでの青苧(麻)織物から、より付加価値の高い絹織物へと移行させていく。

単に作らせるだけではなく、 「どうすれば産業として続くか」 「どうすれば人が食べていけるか」 そこまで考え抜かれていたことが、展示からも伝わってきました。

織物が、単なる工芸品ではなく、 地域の暮らしと未来を支える“産業”として育てられてきた。 その背景を知ったことで、米沢という土地がぐっと身近に感じられたのです。


◾️ 産業の近代化と、米沢の挑戦

技術を受け入れる土壌

明治時代に入ると、米沢の織物産業はさらに大きく発展していきます。 工業学校の設立、力織機やジャカード機の導入。

中でも特筆すべきなのが、 「米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)」の存在です。

ここで、日本で初めて人造絹糸、いわゆるレーヨンの製造に成功しました。 これは、日本の化学繊維産業の出発点とも言える出来事です。

山形大学工学部

◾️ 「なぜ米沢で?」という疑問

土地が持つ、進取の気性

正直なところ、私は疑問に思いました。 「なぜ、米沢だったのか?」

東京でも大阪でもなく、 なぜ地方の一都市で、そんな先進的な取り組みが行われたのか。

その答えを探す中で出会ったのが、城山三郎の小説『鼠』でした。 この作品の中には、米沢という土地が持つ、新しいものを受け入れる気風が描かれています。

伝統を大切にしながらも、 必要とあらば新しい技術を取り入れる。

米沢には、そうした柔軟さと胆力が、昔から根付いていたのだと思います。

人絹の誕生

◾️ 戦後の米沢と、洋服地

呉服から服地へ

戦後になると、米沢の織物産業はさらに姿を変えていきます。 合成繊維を用いた先染め婦人服地の生産が盛んになり、 呉服と服地、両方の分野で発展していきました。

特に、先染め技術を活かした表現力は、 高級婦人服地の分野で高く評価されるようになります。

国内ブランドはもちろん、 海外のブランドにも採用される生地が、米沢から生まれていきました。


◾️ 洋服と米沢の技術

先染めが生む、繊細な表情

洋服との関わりで言えば、 米沢の強みは、やはり先染めとジャカードにあります。

糸の段階で色を染め、 織りで柄や表情を作り込んでいく。

その精密さ、奥行きのある表現は、 プリントでは決して出せない魅力を持っています。

トレンドに合わせた変化を取り入れながらも、 土台にある技術は決してぶれない。

この姿勢こそが、 米沢産地が今も評価され続ける理由なのだと感じました。

ジャカード

◾️ 商談を重ねる中で

産地の人と、距離が縮まっていく

その後、私は米沢を定期的に訪れるようになります。 都内で展示会が開催された際には、 米沢繊維産業組合の親睦会にも参加させていただきました。

そこには、 「産地としてやってきた」という誇りと、 「これからも続けていく」という覚悟がありました。

形式ばらない会話の中に、 仕事への本音や、未来への不安も混じっていたように思います。


◾️ 米沢の街で過ごす時間

仕事と人が、自然につながる

米沢への出張は、ほとんどが泊まりがけでした。 日中は商談、 夜はコンバーターさんや機屋さんと街を歩く。

地元の居酒屋で、米沢牛を囲みながら、 仕事の話だけでなく、 家族のことや、若い頃の話を聞くこともありました。

こうした時間があるからこそ、 単なる「取引先」ではなく、 「同じ産地に関わる人」としての関係が生まれていったのだと思います。


◾️ 忘れられない機屋の風景

和室での商談

米沢で訪れた機屋の中には、 今でも強く印象に残っている場所がいくつもあります。

ある機屋では、 商談の場が畳敷きの和室でした。

座布団に座り、 お茶をいただきながら、生地の話をする。

効率だけを考えれば、 決して合理的とは言えないかもしれません。 ですが、その空間には、 「ものづくりを大切にする時間」が流れていました。


◾️ 歴史を背負う機屋

織物は、文化でもある

中には、 「天皇皇后両陛下行幸啓」を受けた歴史を持つ機屋もありました。

また、 中庭に池があり、 錦鯉が泳ぐのを眺めながら話をする機屋もありました。

そうした場所で織られる生地は、 単なる商品ではなく、 文化や時間そのものをまとっているように感じられます。


◾️ 仕入れ担当として、感じたこと

数字だけでは測れない価値

米沢産地を歩く中で、 私は何度も考えさせられました。

「この生地は、いくらで売れるか」 それだけでは測れない価値が、確かに存在している。

背景を知り、 人を知り、 土地を知ることで、 生地の見え方は大きく変わります。

この感覚は、 その後の仕入れの考え方にも、 確実に影響を与えていきました。


◾️ 今につながる、産地との向き合い方

米沢が教えてくれたこと

米沢での経験は、 私にとって「仕入れ」という仕事を見直すきっかけにもなりました。

効率や回転だけではなく、 「なぜ、これを扱うのか」 「誰が、どう作っているのか」

そうした問いを持つことの大切さを、 米沢産地は静かに教えてくれたように思います。


◾️ 次回への布石

たった一言が、流れを変える

次回は、 米沢のコンバーターの方が、 セールの応援に来てくださった時のエピソードをお話しします。

その会場で交わされた、 たった一言。

それが、 思いがけない展開につながっていくことになります。

次回のコラムも、 ぜひお付き合いください。



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