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Textile Industry Column糸偏コラム:自由な視点
素材のちから

2026.01.10:第6回 素材のちから

絹産業遺産群
〜プラスアルファ〜

はじめに|予定を変更してでも、今伝えたかった理由

前回のコラムでは、次回予告として「現代に残る製糸工場」、とりわけ私自身が実際に足を運んだ碓氷製糸株式会社を取り上げることをお伝えしました。 にもかかわらず、今回はその流れを一度止め、急遽「絹産業遺産群」のうち世界遺産登録には至らなかった7つの施設を先にご紹介します。

理由は一つです。

それは、現代の製糸を語る前に、その“土台”となった環境や人の営みを、どうしても欠かすことができないと感じたからです。

富岡製糸場を中心とする4つの登録資産は、制度・技術・思想として非常に完成度の高いものでした。しかし、それらが単独で成立したわけではありません。蚕を育てる農家、繭を保管し運ぶ仕組み、時間と温度を制御する知恵、そしてそれらを結ぶ交通と流通。

世界遺産の“外側”に位置づけられたこれらの施設は、表舞台に立つことはありませんでしたが、確実に日本の絹産業を下支えしてきました。現代の製糸工場を訪ねる前に、この名もなき名脇役たちの存在に、きちんと光を当てておきたい——そんな思いから、今回のプラスアルファ編をお届けします。

プラスアルファ

絹産業遺産群という広がり

当時の調査資料では、登録された4つの施設と、登録に至らなかった関連施設を含め、合計10か所と表現されることがありました。これは「交通・流通」といった機能別に、複数の施設が一つのカテゴリーとしてまとめられていたためです。

しかし、個別の資産として見れば11か所。それぞれが固有の役割と物語を持っています。本コラムでは、そのうち登録されなかった以下の7施設に焦点を当てていきます。

・ 碓氷峠鉄道施設(安中市)※眼鏡橋を含む
・ 旧上野鉄道関連施設(富岡市・下仁田町)
・ 薄根の大クワ(沼田市)
・ 東谷風穴(中之条町)
・ 富沢家住宅(中之条町)
・ 赤岩地区養蚕農家群(中之条町)
・ 旧甘楽社小幡組倉庫(甘楽町)


碓氷峠鉄道施設(安中市)

◾️ 交通と流通|絹を“運ぶ”という、もうひとつの技術

―― 絹を背負って、山を越えた鉄道

碓氷峠鉄道施設、と聞いて、 多くの方が思い浮かべるのは レンガ造りのアーチ橋――眼鏡橋でしょう。

しかし、この施設の本当の意味は、 「美しい橋」ではありません。

碓氷峠は、群馬と信州を結ぶ日本有数の交通の難所でした。 その峠を鉄道で越えることは、 群馬県内で生産された生糸だけでなく、 長野県をはじめとする内陸部の養蚕地帯で生産された繭や生糸を、 全国、そして横浜港へとつなぐために不可欠な条件だったのです。

内陸で生み出された絹を、 安定して外へ運ぶことができてはじめて、 日本の絹は世界の商品となりました。 碓氷峠を越える鉄道網は、 地域を越えて絹産業全体を支える大動脈でした。

眼鏡橋は、景観遺産である以前に、 人・物・産業を山の向こうへとつなぐための 近代日本の物流インフラの結晶なのです。

碓氷峠鉄道施設

旧上野鉄道関連施設(富岡市・下仁田町)

◾️ ―― 工場と農村を結んだ“動脈”

旧上野鉄道は、 富岡製糸場と周辺地域を結ぶ鉄道として整備されました。

ここを通ったのは、 人だけではありません

・ 繭
・ 生糸
・ 石炭
・ 資材
そして、情報。

この鉄道があったからこそ、 富岡製糸場は「孤立した工場」ではなく、 地域と結びついた産業拠点として機能しました。

目立たない存在ですが、 産業において“動かす”ことは、“つくる”ことと同じくらい重要です。

旧上野鉄道関連施設

薄根の大クワ(沼田市)

◾️ ―― 一本の木が語る、養蚕の原風景

薄根の大クワは、 樹齢数百年とも言われる桑の巨木です。

施設でも、建物でもありません。 それでも、 この一本の木は、 確かに日本の絹産業を象徴しています。

なぜなら、 養蚕はすべて桑から始まるからです。

蚕は、桑しか食べません。 この当たり前の事実が、 養蚕という産業の厳しさと奥深さを物語っています。

薄根の大クワは、 「産業の原点は、自然との関係性にある」 ということを、静かに教えてくれます。

薄根の大クワ

東谷風穴(中之条町)

◾️ ―― 荒船だけではなかった、知恵の蓄積

荒船風穴が有名ですが、 同様の風穴は各地に存在していました。

ここにあるのは、力ずくの制御ではなく、自然と折り合いをつける知恵。この感覚は、現代のサステナブルなものづくりにも通じるものがあります。

東谷風穴も、そのひとつです。

これは、 「特殊な場所が奇跡を起こした」のではなく、 同じ課題に対して、各地で知恵が生まれていた ことを示しています。

つまり、 日本の絹産業は、 一点突破ではなく、 面的に支えられていた産業だったのです。

東谷風穴

富沢家住宅(中之条町)

◾️ ―― 生活と仕事が、分かれていなかった時代

富沢家住宅は、 養蚕農家の典型例として知られています。

ここで重要なのは、 「仕事場」と「生活空間」が 明確に分かれていなかったことです。

蚕は、家の中で育てられ、 家族全員が関わりました。

産業は、 工場の中だけで完結していなかった。

暮らしそのものが、 産業の一部だったのです。

富沢家住宅

赤岩地区養蚕農家群(中之条町)

◾️ ―― 村全体が“工場”だった場所

赤岩地区では、 集落全体が養蚕に適した構造を持っていました。

・ 日当たり ・ 風通し ・ 作業動線

それぞれの家が、 同じ思想のもとで建てられている。

これは、 個人の努力を超えた 地域ぐるみの産業対応です。

赤岩地区養蚕農家群

旧甘楽社小幡組倉庫(甘楽町)

◾️ ―― 生活と仕事が、分かれていなかった時代

―― 信用を保管する場所

最後にご紹介するのが、 旧甘楽社小幡組倉庫です。

ここは、生糸を保管し、 品質を管理し、 取引の信頼性を担保する場所でした。

つまり、 この倉庫が守っていたのは、 糸だけではなく、信用だったのです。

旧甘楽社小幡組倉庫

おわりに|登録されなかった遺産が語るもの

世界遺産に登録されることは、 確かに名誉なことです。

しかし、 登録されなかったからといって、 価値がなかったわけではありません。

むしろ、 こうした施設があったからこそ、 登録された4つの施設は “機能”することができたのです。


次回予告|現代の製糸へ

次回はいよいよ、 現代に残る製糸の現場――群馬県・碓氷製糸株式会社を取り上げます。

過去から、現在へ。 素材のちからは、 今も脈々と続いています。

次回は、 実際に訪れたことのある 群馬県・碓氷製糸株式会社を取り上げ、 「現代の製糸」という現場から、 素材のちからを見つめ直します。

また、製糸の今をたどっていきましょう。



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