2026.01.01:第16回 私の回顧録
洋服の内側
〜インナーメーカーでの経験〜
明けましておめでとうございます。
今年も糸偏コラム「私の回顧録」をご覧いただきありがとうございます。
今回は第16回です。
回を重ねるごとに「よくここまで来たなぁ」と、書きながら自分自身が一番驚いているかもしれません。
これまでのコラムでは、繊維業界、アパレル業界、バイヤーとしての経験など、「洋服の表側」とも言える世界についてお話ししてきました。
しかし今回は、その一枚奥。
洋服の“内側”にある世界のお話です。
そう、インナー。
下着、ランジェリー、肌着と呼ばれる、毎日身につけているのに、なかなか語られることの少ない存在です。
おしゃれなトップスやコートは目に留まりやすいのに、インナーは「とりあえず」「見えなければOK」と扱われがち。でも実は、着心地も、シルエットも、気分も左右する、とても重要な存在です。
今回は、私がインナーメーカーで過ごした日々を振り返りながら、
・ 繊維のまちで感じた空気
・ 営業としての葛藤
・ 大手ブランドとの圧倒的な差
・ それでも諦めなかった理由
そんなことを、少し肩の力を抜いてお話ししたいと思います。
◾️ 繊維のまち・足利
私が勤めていたのは、栃木県足利市にある、歴史あるインナーメーカーでした。
足利といえば、古くから**「繊維のまち」**として知られています。特にトリコットを中心とした経編(たてあみ)産地として、日本一と称された時代もありました。
会社の前を走る通りの名前は、「トリコット通り」。
その名前を初めて聞いたとき、少しちぐはぐな印象を受けました。というのも、私が勤めていた当時、ここはすでに繊維工場が立ち並ぶ通りではなくなっていたからです。
かつては編立工場やレース工場が軒を連ね、足利の繊維産業を支えていたであろうこの通り。しかし当時は、多くの工場が姿を消し、繊維工場として稼働している場所はわずかに残っている程度でした。
とはいえ、いわゆるシャッター通りのように放置されているわけではありません。
かつて工場だった建物は、飲食店や小売店、まったく別業種の店舗へと姿を変え、さらに大型のショッピングセンターも建ち、通り自体には人の流れがありました。町は確かに生きていて、時代に合わせて形を変えながら動いている。そんな印象でした。
それでも、この通りが歩んできた時間そのものが消えたわけではありません。
産業としての繊維は衰退し、町の役割は変わってしまったけれど、「トリコット通り」という名前だけは、かつてここが“トリコットを生み出していた場所”だったことを、今も静かに語り続けているように感じられました。
◾️ レディースインナーという世界
そのメーカーが手がけていたのは、主にレディースインナー、特にランジェリー分野です。
素材はトリコットやニットが中心。軽く、柔らかく、伸びがあり、肌当たりが良い。
ランジェリーというと、どうしても「デザイン」や「色気」に目が行きがちですが、実際の現場ではそれ以上に
・ 伸縮性
・ フィット感
・ 耐久性
・ 洗濯後の変化
といった、非常に地味で、しかし重要な要素が重視されます。
「美しく見せる」
「きちんと支える」
「でも苦しくない」
このバランスを取ることが、どれほど難しいか。
インナーの世界に足を踏み入れて、初めて知りました。
◾️ 長崎屋担当の日々
私は営業職として配属され、全国展開の大手量販店「長崎屋」を担当することになりました。
本社は東京・浅草橋。
毎週月曜と火曜は必ず訪問し、商談や打ち合わせを行うのがルーティンでした。
週の始まりから、いきなり真剣勝負。
商談室に一歩足を踏み入れると、空気がピンと張りつめます。
とはいえ、そこに集まる競合他社の営業担当者たちも、同じ釜の飯を食っている仲間のような存在でした。
自然とまとめ役のような人も現れ、意外なほどフレンドリー。
自社の人間よりも長い時間を共に過ごしているせいか、妙な連帯感と、どこか不思議な空気感が漂っていました。
営業の仕事は、商談だけでは終わりません。
月に一度ほど、全国の店舗を回り、売り場づくりのサポートも行いました。
実際に店舗に立つと、数字だけでは見えない現実が見えてきます。
・ なぜ売れないのか
・ どこでお客様が立ち止まるのか
・ どの商品が手に取られているのか
売り場は、生き物でした。
◾️ 1アイテムの重み
商談のテーマは単純な「仕入れ」ではありません。
・ どの売り場に
・ どれだけのフェイス(売り場スペース)を確保できるか
・ そのフェイスで、どう売るか
まさに、場所取り合戦です。
長崎屋で一度商品が採用されると、全国約100店舗に一斉展開されます。
つまり、たった1アイテムで、100万円単位の売上が見込める世界。
自社にとっては、1アイテムの成否が、そのまま会社の命運を左右するほどの重みを持っていました。
だからこそ、フェイスの取り合いは必死そのものだったのです。
◾️ “弱小メーカー”という現実
私の会社は、長崎屋の中では完全に“弱小”。
相手は、ワコール、トリンプといった、業界を代表する大手ブランドです。
ブランド力、商品力、企画力、広告力。
どれを取っても、その差は歴然としていました。
半年ごとの売り場改定のたびに、フェイスは少しずつ削られていく。
「このままではいけない」
そう思いながらも、明確な打開策は見えないまま。
営業としての焦りだけが、日に日に募っていきました。
◾️ 営業だけでは限界がある
「どんなに説明しても、商品が弱ければ売れない」
これは、インナーメーカー時代に骨身にしみて感じたことです。
いくら営業が頑張っても、企画や商品そのものに力がなければ、バイヤーの心は動きません。
そこで私は、社内に提案しました。
商品企画を本気でやらないと、未来はないと。
◾️ 社内企画会議の始まり|小さな一歩
こうして始まったのが、社内の商品企画会議でした。
営業が企画に口を出すのは、当時としては珍しいことだったかもしれません。
でも、売り場を知っているからこそ言えることがある。
現場で見てきたこと、感じたことを、ひとつひとつ伝えました。
それは、大きな革命ではありませんでしたが、
確実に、会社の雰囲気を少しずつ変えていきました。
◾️ 終わりに
ここでの経験は、私にとって大きな財産となりました。
洋服の内側に目を向けることで、
「本当に価値のあるモノとは何か」
を考えるようになりました。
見えない部分にこそ、技術があり、想いがあり、工夫がある。
それは、洋服だけでなく、仕事や人生にも通じることかもしれません。
次回は、商品企画編。
小さなメーカーが、大きな売り場でどう戦おうとしたのか。
その続きを、ぜひお楽しみに。