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Textile Industry Column糸偏コラム:自由な視点
素材のちから

2026.01.05:第1回 素材のちから

富岡製糸場
〜映えある初回〜

みなさま、こんにちは。
「素材のちから 〜伝統と革新〜」という新しいシリーズを、今回からお届けします。 その記念すべき第1回に選んだテーマは、日本の近代産業の原点とも言える富岡製糸場です。

素材は、ただの“原料”ではありません。 人の暮らしを支え、文化をつくり、時代を映してきた存在です。

このシリーズでは、 素材が歩んできた歴史 そこに関わった人たちの想い そして、現代につながる意味を、できるだけわかりやすく、親しみやすくお伝えしていきたいと思っています。

富岡製糸場

◾️ 小学校で習った「あの場所」

みなさんも、小学校の社会で 「富岡製糸工場」という言葉を習った記憶があるのではないでしょうか。

正式名称は、 官営模範工場・富岡製糸場。

日本が近代国家へと舵を切った明治初期、 国を挙げてつくられた“お手本となる工場”です。

この富岡製糸場が、 現在、私が暮らしている群馬県にあります。


◾️ 上毛かるた

群馬で育った方なら、誰もが知っている「上毛かるた」。 実はこの中に、糸や織物、そして富岡製糸場に関わる札が、いくつも登場します。

子どもの頃は、深く考えずに遊んでいましたが、 大人になってから改めて見ると、 群馬がいかに“糸の県”だったかが、よくわかります。

「き:桐生は日本の機どころ」
「西に西陣、東に桐生」と言われるほど、 桐生は日本有数の織物産地でした。
桐生御召、羽二重、絹と綿を組み合わせた交織生地。 織物の技術と美意識が、この地で育まれてきたのです。

「け:県都前橋 生糸の市」
前橋は、かつて生糸取引の中心地でした。
市場には全国から生糸が集まり、 海外へと輸出されていきました。 群馬の養蚕と製糸が、日本経済を支えていた時代です。

「に:日本で最初の富岡製糸」
この札こそが、今回の主役。
開国後、生糸は日本最大の輸出品となり、 その品質向上のためにつくられたのが、富岡製糸場でした。

「ま:繭と生糸は日本一」
群馬は、養蚕から製糸までを一体で支えた地域。
富岡を中心に、前橋、桐生、伊勢崎へと、 糸と織物の文化が広がっていきました。

「め:銘仙織出す伊勢崎市」
伊勢崎銘仙は、大正から昭和初期にかけて一世を風靡しました。
大胆な色柄は、当時の“ファッション最先端”だったと言えます。

「ゆ:ゆかりは古し貫前神社」
富岡にある貫前神社には、 機織りにまつわる神様が祀られています。
この土地が、はるか昔から 「糸」と深く結びついてきたことを感じさせます。


◾️ はじめての富岡製糸場

私が初めて富岡製糸場を訪れたのは、 写真を見返すと、どうやら2007年10月14日。

たまたま「富岡どんと祭り」の日で、 入場料が無料だったことを、今でもよく覚えています。

その後、仕事の関係で富岡に倉庫があり、 社員旅行で訪れたり、打ち合わせの合間に立ち寄ったりと、 気がつけば約10年で100回近く富岡を訪れていました。

今では、とても懐かしい場所です。

富岡どんと祭り

◾️ 富岡製糸場とは何だったのか

― 日本近代化を支えた「工場以上の存在」 ―

富岡製糸場が操業を開始したのは、1872年(明治5年)。 日本初の、本格的な西洋式器械製糸工場でした。

当時、日本にとって生糸は、 国の未来を左右する輸出品だったのです。

― 国を挙げた一大プロジェクト ―

品質の安定しない日本の生糸を、 世界で通用するレベルへ引き上げるため、 明治政府は国家事業として富岡製糸場を建設します。

フランス人技師ポール・ブリュナを招き、 建物も機械も、当時最先端のフランス式。

操業開始時点で300台以上の繰糸機を備え、 世界最大級の規模を誇っていました。

― 技術だけでなく「人」を育てた場所 ―

富岡製糸場の本当の価値は、 技術と人材を全国に広めたことにあります。

全国から集められた工女たちは、 ここで近代製糸技術を学び、 やがて各地の指導者として活躍していきました。

富岡製糸場は、 日本最大の「製糸学校」でもあったのです。

― 民営化、そして産業としての成熟 ―

1893年、官営から民営へ。 三井物産、原合名会社を経て、 1939年からは片倉工業が運営を担います。

設備は更新され、生産量も安定。 最盛期には年間37万kgの生糸を生産しました。

― 世界とつながる日本の絹 ―

20世紀初頭、 日本は世界最大級の生糸輸出国となります。

アメリカやヨーロッパの絹産業は、 日本の生糸なくして成り立たなかったと言われています。

富岡製糸場は、 日本の近代化を“現実的に”支えた工場でした。

― 終焉、そして世界遺産へ ―

1987年、操業停止。 約115年の歴史に幕を下ろします。

しかし、その価値は失われませんでした。 2014年、 **「富岡製糸場と絹産業遺産群」**として、 ユネスコ世界文化遺産に登録されます。

▶︎ 富岡製糸場足跡

富岡製糸場

◾️ 私の感想|素材の原点に立ち返る場所

富岡製糸場を歩いていると、 「日本の繊維産業の原点」という言葉が、決して大げさではないことを実感します。

今の私たちは、生地も糸も、あまりにも当たり前に手に取っています。 値段、色、風合い、トレンド—— 選択肢が多すぎる時代です。

けれど、ここ富岡製糸場では、 「まず、良い糸をつくる」 その一点に、すべてが集約されていました。

素材に真っ直ぐ向き合い、 技術を磨き、人を育て、世界と勝負する。

役目を終え、世界遺産となった今でも、 その“姿勢”だけは、建物の隅々に残っているように感じます。

流行の移り変わりが激しいファッションの世界だからこそ、 ときどき立ち返るべき場所。 富岡製糸場は、そんな存在だと思っています。


◾️ 最後に|厳しい現実と、その先にある希望

はじめて富岡製糸場を訪れたとき、 私はツアーガイドの方に、少し踏み込んだ質問をしました。

「なぜ、操業を停止することになったのですか?」

返ってきた答えは、とてもシンプルで、そして重たいものでした。 中国・浙江省や江蘇省でつくられる絹糸の価格には、 どうしても勝てなかった——。

後で知ったのですが、ガイドの方々の多くは、 かつて片倉工業で働いていた方々だったそうです。 そう思うと、今でも少し胸がチクリとします。

生産拠点が、人件費の安い場所へ移っていく。 これは富岡製糸場だけでなく、 多くの産業が経験してきた現実です。

西洋から日本へ、日本からアジアへ。 そして今は、ASEANやインド、 将来はアフリカへ——とも言われています。

正直に言えば、 これは「夢のある話」ではありません。 宿命とも言える、厳しい現実です。

ただ、その一方で、私はこうも思います。

大量につくる時代が終わりに近づくとき、 次に価値を持つのは「安さ」ではなく、 意味、背景、そして物語ではないか、と。

富岡製糸場が世界遺産として残ったのは、 古い建物だからでも、ノスタルジーのためでもありません。

そこに、 素材と真剣に向き合った時間があり、 人が育ち、技術がつながれ、 日本が世界と向き合った記憶が刻まれているからです。

これからの素材とファッションは、 もう一度「語る力」を取り戻していく。 私は、そんな気がしています。


◾️ 次回予告

2014年、富岡製糸場は 「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されました。

実は、主役は富岡製糸場だけではありません。

・ 高山社
・ 田島弥平旧宅
・ 荒船風穴

次回は、その中から **「高山社」**を取り上げます。

富岡製糸場が「工場」だとすれば、 高山社は「仕組み」と「思想」の場所。

糸づくりを支えた、もうひとつの重要なピースです。

次回も、ぜひお付き合いください。



【2026年1月6日】 ▶︎▶︎▶︎

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